Calender

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>

Categories

Archives

Recent Entries

暮らし

近所の銭湯|懐かしい昭和の備忘録

あの頃は“内風呂”と言う言葉をよく耳にしました。当時の集合住宅がどうなっていたかは分かりませんが、私が物心の付いた頃には、近所のお風呂屋さんに通うのが当たり前でした。内風呂を持つことは、一般的な住宅で暮らす者には大きな憧れだったのです。

 

男女の風呂を分ける入口の真ん中には番台があって、確か大人一人が30円とかだったように記憶しています。石鹸やら髭剃りやら手ぬぐいやら、入浴グッズは一通り、タバコなんかも置いていたのではないでしょうか。「いこい」と「あさひ」のパッケージが思い出されます。

 

でも、幼い私の記憶に強く印象付けられているのは「コーヒー牛乳」と「マミー」それに「りんごジュース」でした。そうです。200mlの瓶入りで、指で押し開けるフタの付いたものです。あっという間に飲み干してしまう「ヤクルト」も、子供心に乳酸菌と言う言葉を自然に刻み込まれていました。子供にとっての甘い物は、まだまだ貴重だったのでしょう。駄菓子屋で買うお菓子よりも、たくさんの甘みを味わえる銭湯の飲み物が、当時の私にとっては至福のひと時であったに違いありません。

 

壁掛け時計みたいな丸いメモリの付いた体重計は、乗る場所が荷物台のようでした。背もたれの角度を変えられないマッサージ機は、10円で利用できたと記憶しています。頭から爪先まで石鹸で洗って貰い、熱い湯に飛び込んだ後は、汗をダラダラ掻きながら百まで数を数えさせられていました。奥の壁が富士山だったかどうかまでは覚えていませんが、一度も入らなかった“電気風呂”にビビッていたことは思い出されます。

 

銭湯の建物も、今の様に大通りに面してはいませんでした。ひっそりと裏通りに入口を構えていて、夕方には必ず打ち水がされていました。夏になるとそこかしこに縁台が出されていて、ステテコ姿のお父さんたちが将棋をさしたり、ビールを飲みながら忙しなくウチワで煽ったりもしてました。まさに夏の風物詩。聴こえて来る風鈴の音色が、妙に心弾ませてくれたのを覚えています。昔も今も、銭湯へいくことが、家族の小さなイベントであることに変わりはありません。体を洗うこと、入浴すること以上に、その行き帰りの一体感が、何よりの癒しなのではないでしょうか。

  • 2016.02.11 Thursday
  • 21:55

イベント

夢の大阪万博|懐かしい昭和の備忘録

太閤秀吉がこの世を去って大阪城が落城して以来、大阪が、いえ、関西が三百年ぶりの面目躍如を果たしたのはこの時でした。日本中が、得体の知れない熱狂の渦に巻き込まれて行ったのです。

 

三波春夫の「こんにちは〜、こんにちは〜、世界の国から〜♪」のリズムは、今でも多くの皆さんの耳に刻まれているに違いありません。日本館をかたどったEXPOのマークや、各パビリオンの外観を刻んだ記念コインなど、猫も杓子も、老若男女も、みな何かしらの憧れを手に胸を躍らせていたのではないでしょうか。まさに日本の歴史上、最初にして最大の、国民参加型の壮大な国際イベントだったのです。総来場者数が6,400万人。当時の人口が、ようやく1億を超えた頃だったことを鑑みれば、如何に凄まじい人気であったかが分かります。一目、あの「太陽の塔」と「月の石」を見ようと、日本中から大挙して観光客が訪れたのでした。

 

パビリオンと言う単語を聞いたのも、殆どの日本人が初めてだったと思います。テーマパーク慣れした今の私たちとは違って、独創的で大掛かりな各国のパビリオンに度肝を抜かれたのは確かでしょう。1,970年と言えば、今から46年も前。私が9才の時でした。父の運転するダイハツフェローで、たった一日限りの日帰り訪問だったのです。

 

後に紐解いた写真に残されている以上の記憶はありません。ただ、ガラスケースに収まった月の石が、思っていたよりも小さかったこと位がLIVEな記憶でしょうか。大阪万博を楽しんだのではなくて、行って来たと言う事実だけで十分な時代だったのだと思います。

 

今でも、多くの方々があの万博を語り草にしています。高度経済成長の真っ只中、国民総中流社会と言われた団塊の世代が、金の卵として社会人デビューを果たした頃でもありました。日本のサムライ企業が、先進国を席巻して行った時代だったのです。本当に、国民の一人一人がパワフルで、“未来”と言う言葉に無限の可能性を感じていたのでした。

 

あの少年少女が夢中になったパビリオンたちが、今も一部、国内にあるのをご存知でしたか。まるで空飛ぶ円盤を吊り上げた様なオーストラリア館は、三重県の四日市市の湾岸地域に移設されました。国道を走れば、あの懐かしい形が目に飛び込んできます。確か展示公開されていますので、気になる方は是非訪れてみて下さい。それ以外にも、全国には譲渡されたパビリオンがあちこちに残されている様です。

 

  • 2016.01.24 Sunday
  • 18:19

漫画とアニメ

デビルマン|懐かしい昭和の備忘録

「ときわ壮」の面々も含めて、昭和を代表する素晴らしい漫画家は他にも数限りなくいるでしょう。私が永井豪さんを推すのは、極めて個人的な好みであることは否めません。漫画その物が日常生活をデフォルメしたり、妄想や空想、夢や希望などプライベートな思考を具現化している以上は、どうしても作家に対する好き嫌いが大きく生じて来てしまう宿命にあるのでした。作者の画風や技術的な表現力なども、文字だけの小説と違って、物語に加減乗除されて行く特殊な評価のもとに置かれています。

 

しかし、新たな物語を生み出す発想の出発点は、作者自身が何を持って善や悪とするか、あるいは何を持って愛や憎しみとするのか、によって全く描かれ方が変わって来るとも言えるのでした。その意味において「デビルマン」と出合った少年たちは、思いも寄らない価値観の逆転に度肝を抜かれたのではないでしょうか。

 

人間と悪魔が合体する。これだけでも十分にショッキングな内容でした。しかも、主人公の不動明は勧善懲悪の正義の味方ではありません。牧村美樹と言う少女一人を護るために、次々と迫り来る凶悪な悪魔たちと命懸けで戦うのです。たった5巻しかない物語の後半、悪魔の実在に気付き始めた人々は、今再びの魔女狩りへと突き進んで行くのでした。そして終には、愛する美樹の命を、暴徒化した住民たちの狂気に奪われてしまいます。美少女のヒロインの五体をバラバラにして、何かで突き刺した生首を高く掲げる“人間”たちの姿に、真の“悪魔”を見たのは私ばかりではなかったでしょう。もはや少年漫画の域を越えていました。

 

悪魔や怪物と言ったキーワードは、ロボット同様、子供たちの受け入れやすいものだけに、似た様な設定の筋書が漫画の世界においても氾濫しています。あくまでも大人たちの批判を浴びない、最大公約数的な分かりやすい作品が部数を伸ばす為に、人間の内面をえぐる様なおどろおどろしい内容に挑戦する作者も出版社も、当時は皆無に等しかったのではないでしょうか。圧倒的な迫力で他の追随を許さない「デビルマン」が、たった5巻で終わった理由も、もしかしたらその辺りに隠されているのかも知れません。

 

物語の終盤では、人間を見限ったデビルマンと、不動明を愛してしまった天使、飛鳥了とが、悪魔と神との最終戦争を起こして行きます。何という穏やかで哀しみに満ちたラストシーンであった事か。上半身だけで横たわる明の隣に、美しい裸体で寄り添う天使の姿がありました。無理矢理に物語を終わらせなければならなかったせいか、やや強引な結末にも思えましたが、しょせん悪魔は悪魔なのだと、子供心に、淡い憧れを打ち砕かれた記憶が残っています。

 

「月よ、そなたは美しい。」あろうことか、人間に肉体を乗っ取られてしまった勇者アモンへの刺客として送り込まれた、美しき妖鳥シレーヌの名セリフです。ここでも、忘れ難き魅力的な悪役たちが登場しているのでした。悪役の悪魔でありながら得も言われぬ美を見せ付けたシレーヌと、主人公でありながら醜い姿のデビルマンが好対照だったのも、価値観の逆転した見事な演出だったのではないでしょうか。

 

奇才・永井豪さんのその後の作品には、「ゲッターロボ」や「魔王ダンテ」など記憶に残るものが数多くあります。しかし、デビルマンやマジンガーZを超える挑戦的な世界観を開拓する事は終ぞ出来ませんでした。今にして思えば、余りに惜しいデビルマンの打ち切りだったと思います。当時の出版社の残念な判断が、名作中の名作を台無しにしてしまったことが悔やまれてなりません。

 

願わくば、平成の子供たちの常識を遥かに超える様な、永井豪さんらしい挑戦的な作品を生み出して欲しいものです。その際は是非、時を越えた少年マンガファンに戻りたいと思います。


 

  • 2016.01.12 Tuesday
  • 19:50